樟の森の研究室

斐伊川が久野川や三刀屋川と合流する地点、木次線がことことと走る線路のすぐそばに住まいし、ここで生きる術と学びを記していきます。

大東の雨量観測所

ここにおられたんですね! 大東の雨量観測所。

 過去の観測データの件では、何度もお世話になっていながら(気象庁のサイトからダウンロードさせていただいている)、お会いするのははじめてでした。

 

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 気象庁のものかとばかり思っていたのですが、国土交通省のものでした。建設当時のプレートには「建設省」とあります。
 なぜ、ここ、大東なのか。しかも、斐伊川水系ではあるものの、支流・赤川のさらに支流にほとりに位置しています。掘り下げてみたいところですが、そこはまたの折に。

 

出雲の山墾り〜消炭づくりの準備

 積もっていた雪もあらかたとけ、去年より半月ほど遅れての本格始動です。とはいえ、2時間半ほど。積んである竹の嵩をとらえ違える箇所もあるので、頭と身体にたたきこんでいくくらいまでやらないと、火は入れられんですね。早く入れてしまいたい気持ちをなだめつつ、あと3日ぶんは動いて、消炭づくり開始としたいところです。

 できれば週末の土曜日に1回目を。と思いましたが、どうかなあ。人数も雪もないし。3月に入るとかなり乾いてくるので難しい。2月20日(土)、そして2月27日(土)または28日(日)を候補日と決めました。

 春の火入れ予定区画の一部で、積んである竹を燃やして消炭をつくります。
 ここは(できれば)春に焼きたくはないなあという区画です。あるいは春に焼くには竹を移動しないといけないところ。それが下の写真にみえる部分です。
 写真奥50mくらい、積んだ竹が続くのですが、深いところで胸の高さ、浅いところでも膝下くらいはあります。伐採から2年たっており、下部などはかなり腐朽が進んでるところもあるのですが、燃えます。春だったらかなりよく燃えるやつです。

 

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 積んである竹は枝がからんでしまっていたり、さまざまな蔓がとりついてしまっており、短く切断していかないと動かせません。これらを細かく分割していき、別な地点へ運んで積み直します。
 隣接している竹も切っていきます。上の写真ですと、左側のもの。ざっと最低30本くらいでしょうか。倒したものは右手に引っ張りおろし、一段下の区画へ積んでいきます。
 太い根本部分は火を入れる部分に積み増ししてもいいかもしれない。もう少し状況を確認していいやり方を考えましょう。
 

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 さて、雪が積もったらという条件がなくても火を入れるためには、延焼防止用のポンプとタンクを設置しないといけない。
 今回程度なら、ポンプは小さなものでもいいのですが、タンクをそばにおくのが難しい。道がぬかるんでしまっている難所があります。これを手当しておくか、それとも、エンジンポンプをレンタルするか。
 次回はそこらも要チェックです。
 

出雲の山墾りをぼちぼちと

 ひっそり今年も始動します。活動ページを設けました。
 冬の準備がものをいうのです。冬の間に、春焼き予定地の竹を半分くらいまでは焼いておきたいということもあります。
 雪がたっぷり積もっていれば、延焼(つまるところの山火事)対策を大幅に減じることができます。人員でいえば、最低10人はいるところが、2人でもいけるというように。
s-orochi.org

 しかしながら、ちょっと積りすぎているようです。
 奥出雲の横田では観測上、10年ぶりくらいの1mごえだったようですし、焼畑フィールドである佐白でも60センチほどはいっただろうと思います。明後日、現地確認の予定ですので、レポートはそのときに。
 下の写真は数日前のご近所。

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菊芋堀り雑感

 雪の下から芋を掘る。
 一般的には遅いのだろう。サツマイモはもちろん里芋だってもとは南国の芋なのだから、零下の気温ではたちまちにだめになる。が、しかし、だ。菊芋は雪の下のをとってくるものだと不確かながら聞いたことがある。そういう芋なのだと。
 ならば、まさにいまが旬。
 ここ数日、雪も溶けてきた山の畑でためしに掘り上げてきた。
 感触はかなりいい。食べての報告はまた。

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昭和26年12月25日、木次のクリスマス

 木次に引越してきて何回目かの年越しと、クリスマスがやってくる。今年も持越しの宿題を棚にあげつつ、手がかりくらいはつかんでおきたいと思う。つかみたいのは、かれこれ75年前のこと、昭和26年の木次のクリスマス、そして年取りとカブについてである。
 昭和26年、1951年の12月の歴史的事件。クリスマスを前に、フランスの地方都市ディジョンで、サンタクロースが火炙りの刑に処せられた。C.レヴィストロースの『サンタクロースの秘密』に詳細がある。問題は同じ日に、日本の木次では市長がサンタクロースの衣装と子どもたちへのプレゼントを用意していたこと。C.レヴィストロースの著書を読めばわかるように、ディジョンと木次は、つながっている。そんなこんなを考えながら、年の瀬をなんとか乗り切りたい。


*写真は昭和27年2月刊?の広報きすき(だったかな)。つながり?と首をかしげる方へ。その深淵の入口は、なぜ、ディジョンでも木次でも市長(町長)のサンタなのか、というところでどうでしょう。あるいはマーシャルプラン、サンフランシスコ講和条約ディジョンの事件では、市長が”復活”したサンタクロースとなってプレゼントを配るのだという新聞記事で論争が終焉したかのようだ。サンフランシスコ講話条約は昭和26年9月8日に締結。もはや知らない人も多いのではないか。が、小さな町でもこの年の話題はこれが筆頭であったのだ。縮刷ではなく、できれば当時の紙で、それを味わってみたいと思うがどこかにあるのだろうか。
占領統治すなわち戦争状態が終わり、日本は主権を回復した。その年の年越しはいかなものであったのだろう。と同時に、市長サンタの政治と子どもたちの夢とみなそれぞれの不安と希望と、なんともいえない渦を感じないだろうか、みなさん。

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蔦のからまる森で

 人間が放置した土地。いま、そこやあそこ、かしこで、当然という顔をして普通にみられる大地の断片。小さな裂目のような場所から自然による「奪還」がはじまる。
 はじまりの場所は「荒廃地」と呼ばれ、人をますます寄せ付けず、荒廃の勢いはます。 さて、そうした場所でこそ、人間が「切札」(なんの?)になるのだと言っていた庭師の言葉を思い出しながら、蔓のからまった小さな雑木山に入る。下層は背丈以上もある笹におおわれ、これまた放置された杉の植林地がわずかに笹の侵入をとめているほかは、荒れた森である。
 秋から少しずつ伐開をはじめた。その日は、笹のヤブをこいで(迷いながら)森を寸断する塗装の道にでた。
 頭上で巨大な蔦のからまった樹林は、見た目にも実際(落下、倒木)にも恐ろしい。が、こんな太い蔦が豊富にとれる時代は数百年ぶりではないのだろうかと思いいたった。 この蔦、なにかに使えないのだろうか。直径10センチをこえるような大物も見たことがある。キヅタ。春にかけて荒れた雑木山からそれなりにとっていくのだが、燃やしてしまうのは惜しい、気がして、まずは小さなものを座右に。

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令和2年、ホウコ雑記

 冷蔵庫の片隅に冷凍したままのホウコが眠っている。たしか2年前のものだと思う。搗く機会を頭のなかであれこれと浮かべながら、いくつかの記録を整理しておきたい。
 思いつくままの箇条書きをまず。
1. 阿井の山野で食べたものの中でのホウコ
2. ホウコの方言分布
3. ホウコの記憶を語る木次のばあさんら
4. ホウコモチをつくる
5. ヤマボウコをまだ見たことがない
6. ホウコはなぜ木次で見なくなったのか
7. ジュンさんの歌、ハハコグサを聴いてみたい
8. ハハコグサ、ホウコについて言及しているもの
9.  農文協の食生活シリーズにおけるホウコ
10.  「モチ」と「ホウコ」
 これらのついては、簡単に加筆しながら、資料のリンク先などを追記していきたい。いずれもかつて一度はブログなどに書いたことがあるものだ。

 そして、かようなことを思い立ったのは、篠原徹の昭和48年の論文の中にホウコについてふれたところがあったため、それを引っ張っておくためでもある。
 「Ethnobotanyから見た山村生活」より

中国山地のどんな谷に行っても、そこには30戸前後の小さな部落が必ずある》
 論文はこの一文からはじまる。昭和48年9月30日受理というからかれこれ47年前。いま、令和2年の西暦2020年、中国山地の片隅に生きる身にとっては切ないような美しさを湛えている一文だ。「必ず」という言葉からは、なにか意思のようなもの、確かなもの、尊いもの、そういったものが受け取られる。いまの私たちは、必ずという言葉を使うべくもないどころか、いまにもなくなりそうな集落をあそこにもここにも抱えている。すでになくなった谷の姿などいくつでもあげられそうだ。
  つい一月ほど前に訪れた匹見の小原集落。その奥の谷にあった十数戸は、篠原が「必ずある」と記した五年後には消滅し、いまその跡形がまさに山に戻ろうとしている。それをどんな感慨と未来へのどんな意思をもって、私たちは後世に継いでいったらいいのだろう。
 

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  篠原を読むということは、単に一論文からパーツとして「利用」可能なものを取り出すという処し方に終わるものではない。そう断りつつ、ここでは、ホウコについての一節をとりだしておく。調査取材した岡山県湯原町粟谷(旧二川村)七人家族、そして広島県東城町帝釈の二人家族の例として、家族が利用する植物があげられ、「粟谷の家族の例について、以下具体的に述べてみたい」と説明が入るところである。

《ただ、この家族には現在82歳になる媼がいて、ケンザキホウコウ(ヤマボクチ)・ヨモギ・チチボウコウ(ホウコグサ)を春先採取して乾燥保存している。これは<シロミテ>(田植後の祝事)の餅搗に湯にもどして米と一緒に搗込み、餅の粘性を高めるのに使われるもので、でき上った餅は<ホウコウモチ>と称され、<カブウチ>(血縁集団)に配られる。しかし粟谷40戸のうちで<ホウコウモチ>を作るのはわずか2〜3戸で、もはやこれも消滅するのは時間の問題であろう。》

  篠原がここで「消滅するのも時間の問題であろう」と述べているのは、ホウコモチに限らず、この50年ばかり前の山村で、山野から草木を採取し多種多様に活かす生活の衰退と、利用する植物の利用と植生、双方の減少を前提にしたものである。
 とはいえ、まだまだここであげられた82歳の媼は、村々にひとりはいらっしゃった時代であり、「そういうことを知っとるばあさんらはみんないなくなった」という言葉を古老からきく現代とは明らかな線がひかれている。
 現実のものとして目の前にあるものとはちがい、私たちが見聞するのは彼岸のものだ。そのことを忘れずにことにあたりたい。ことにいま、こうしてやっているような断片を抜き出しつつ並べることに対して。そう自らを戒めたうえで、ホウコから離れて、いくつかの断片を拾っておく。忘れてはいけないが、忘れぬように。備忘という。
 篠原が昭和48年9月に行った調査、すなわち、粟谷を構成している40戸の家から年代別に13人を選び、調査したものの解説中から得たものだ。調査は「実用価値を既に失った野生植物の利用実態」について、調査表を用いて行っている。その数だけはあげておこう。食物関係121種、民間薬73種、農具・繊維・結束・籠・建材36種、神社・寺・祭用9種、炭・薪19種、その他56種である。下に図を掲げるが、およそ半分が利用しなくなったもので、おそらく今同様の調査をすれば、数%となるのではないか(やってみたいなと思う※)。

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 閑話休題。山村で実用価値をほぼ失っている野生植物について、である。

《食物関係の植物でB・C項に属するものが非常に多いことは、山村の食生活が以前と大幅に変化したことを明瞭に示して居る。特にC項(名称、使用法は聞いたことがある)に属する野生植物は、いわゆる飢饉の備荒食として知られている植物が多く、30代から60代では料理法・処理法を全く知らない人が多い。クズボウラ(クズ)、シズラ(ワラビ)の根を掘って澱粉をとった人は既におらず、わずかに70代の人がヤーヤー(ウバユリ)の根から澱粉を採ったことを記憶しているにすぎない。》
《ヤーヤーは、五月頃葉のまだあまり出ていない鱗茎のよく発達したオンナヤーヤーと呼ぶものを採取し、唐臼で搗くか、石の上で叩いた後、桶の中に入れて漉す。その水を何回もとり変えて、上澄を捨て、最後に沈殿したものを乾燥することにより、カタクリを採った。》

 

 ウバユリについては、椎葉村の話、日原の話、そして阿井の山野にあったかなかったか。大事なことは、ウバユリの根がおいしく、ふえてくれれば自家で食したいということによる。どうやって山野でふやしていくか、ということだ。これは奥出雲山村塾、森と畑と牛と、で行うことでもある。

 ウバユリが、澱粉を採取する植物として、クズやワラビから採らなくなった後にも利用されていたのは、採取時期の違いとそこにかける労力の大きさの違いによるだろう。ウバユリは量を採るのが大変とはいえ、クズやワラビに比べれば素手でも掘れなくはないのだから。

 さて、次にひとつ、年取りのことで例があるので、ひいておく。

《今は忘れられている年中行事にも、ずいぶん多く野生植物が利用されていた。正月前の12月13日を<キシクサン>と呼び、どの家でもシラハシ(ウリハダカエデ)→「松江の花図鑑」参照で正月用の箸を作る行事があったし、<オオドシ>(大晦日)にはミノサイジョウやフクナリという品種の柿を<年取柿>と称して必ず食べたものである。11月の初め頃、この柿を採り蔵に自然状態で放置しておくと<オオドシ>には渋がとれて食べられるようになっており、これを<ムシ柿>と呼んでいた。……中略……また正月の期間中、竈で燃す薪はヌリダ(ヌルデ)でなければならないとされ、正月前にこの木が大量に準備された。》

  ヌルデ→「松江の花図鑑」参照は負い木でもあって、美保神社の祭礼に用いられたのであったか(要確認)。正月に子供の玩具としてアワボッター、ヒエボッター(アワやヒエに似せて、ヌルデの木でつくったもの)があるのは、あれはどうだったろうか、など記憶の曖昧なものを改めて確かめておきたい。

 ほか、蓑の材料となった植物のこと、キノコのことなど、書き留めておくべきことが多いが、それらはまたのちの機会に。とくに蓑については書きかけのものもあるので、近々に。


 

 

 

熊子の古を拾いつつ#地方史誌其の一

熊子(くまご)と、出雲地方で呼ばれてきたアワのことについて、いまだ調べること多いものの、まとめていこうと思う。記録の散逸、記憶の錯誤をおそれる。できるところから少しずつ書き足していく方式をとろうと思う。

 あわせて、聞き取りを再開したい。その基礎資料としてつくるものでもある。

地方史誌其の一では、島根県内でのそれを中心に集めていく。順序はまた整理するとして、まだ一度も文字に起こしていない(であろう)ものから。基本的な記載法としては、全文を抜書きした後に注釈、解釈をつけていく体裁とする。

■1.羽須美村誌のくまご

『羽須美村誌(下)』昭和63年,羽須美村誌編集委員会

第五項 くまご(こあわ)

 麻畑の後作として、「くまご」を栽培した、これは麦と共に米の補給物として重要なものであった。
 麻刈りした畑に、ほとんどがバラ蒔きをしていたので、水田の除草や、養蚕の合い間を縫って、手入れをするのだ。手入れといっても主に、間引きと除草である、真夏の太陽のもとでの仕事であり、手間のかかる作業なので、編み笠や、すげ笠、後にはコーモリ傘をさして行った。しかも一番間引き、二番、三番と、三回間引いて丈夫なものを、程よい間隔に残しながら雑草も取ったが、道具とてもなく素手の作業である。
 年によっては、「ホージョウ」と言う害虫が大発生して、一日二日で、丹精こめた「くまご」が葉も茎も無惨に喰い荒されて、収穫皆無と言う年すらある。除法もなく、僅かな発生なら、捕獲駆除もしたが、大発生には全くお手あげであった。

一、収穫

 一穂一穂を、穂を揃えて両手に一杯になると、根元より引抜いて、茎を適当な長さで切り一把にして、干架に掛けて乾燥する。

二、脱穀

 脱穀は、麦と殆ど同じ方法で、打台にたたきつけて穂を落とすのであるが、これも隣同志で手間がえで行うことが多かった。
 打ち落とした穂や粒は、蓆の上で、ブラ槌や、槌でたたいて、粒とし「大ドウシ」にかけて、粒に穂や雑物に選別し、雑物や穂は更にブラ槌等でたたいて、トウシに掛ける等数回繰り返し、粒はトウミに掛けて、小さいごみと粒に仕分けして、一応完了であるが、この作業も、大変な、ちりの中の作業で、全身汗とほこりとの闘いであった。反収二石も穫れれば上作である。
 この「くまご」も年々減少して昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。
 昭和の初期までは、常食として米に混ぜて、ご飯に炊いていた極めて重要な食糧であった。御飯一升について二合ー四合(二割ー四割)を混ぜて食した。炊きたての温かいうちは、黄色で香りもよく、食べ易く味も悪くはなかったが、一旦冷えると、香りもなくボロボロして食べ難いものであったように記憶している。

◆1. 執筆者自身の食味に関する記憶が記されている。注視したいのは、くまごを「こあわ」とカッコづきで見出しにたてていること、そして麻の後作として栽培した旨である。今まで見てきたなかで、「こあわ」とはっきり書いているのはこの羽須美村誌のみ。アワは春蒔きの春アワと夏蒔きの夏アワに大別する分類があるが、羽須美村誌が記すくまごは夏アワである。夏アワであることが明白なものとして、出雲国産物帳の飯石郡絵図注書認指出帳の「八月熊子」がある。
◆2. 飯石郡絵図注書認指出帳の「八月熊子」には、「五月畑に種を蒔、八月熟、八月熊子と名附申候」とある。新暦でいえばおよそ六月中旬に播種、九月中旬に収穫ということだろうか。生育日数は90日ほどと短い(夏アワの生育日数は90〜130日)。また、この文書で注目したいのは熊子の特徴について「粟とほぼ同じだが、芒のないのが熊子だ」と説明していること。「粟同然に御座候え共、いぎ無御座に付、熊子と申候」。「いぎ」は芒のことだろう。
◆3. 上記1,2から羽須美村誌におけるくまごは、次の特徴をもつ。
・夏アワ
・コアワ
・ウルチ種
・脱ぷ後の色は黄色
◆4. 調製道具について……打台は大きな板のようなものであろうが、据え方など詳細は不明。ブラ槌と槌を併用しているところが興味深い。ブラ槌で荒くたたいて、小さくなるにつれて槌にかえていったのではなかろうか。次にひいた赤来町(谷地区)の調製が詳しいので比較するによい。
◆5. くまごを食したのは羽須美村全域であったのか……《昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。》という変化は日本の山村における雑穀食に起こったものとほぼ同様である。もう少し詳細を掘り起こしてみたいものだが、羽須美の場合も、次の赤来(谷地区)の場合でも、手間がえ・てまがいと呼ばれた隣近所の共同作業で脱穀をしていることが、いったい何を物語っているのか、それを読み取ることからだろう。

■2.赤来町史のクマゴ

 『赤来町史』1972,赤来町史編纂委員会 編
 第6編 赤来町の民俗〜
クマゴこなし
 谷地区では稲のこなしが済んで十一月に入るとクマゴこなしが各部落でてまがいにより行われた。クマゴは粟の一種で米に混ぜて炊いたもので、谷では昭和初期まで常食としていた。米一升にクマゴ一合を、多く混ぜる家では二合〜三合を混ぜて炊いた。なお、クマゴをたくさん作る家では三石〜四石も収穫した。
 「今日はうちにクマゴを叩きゃあ思いますのでお願いします。」と田植え組(五、六軒〜七、八軒)へ依頼する。この作業は夕方から夜にかけて行われ、依頼を受けた家から二名ずつぐらいが、それぞれ籾トオシと米トオシを持って集まる。まず稲をおろした跡のハデ(稲架)からクマゴをおろし、臼庭へ運ぶ。次に臼庭へ苫を立て四畳半ぐらいの広さに三方を囲む。その中に餅搗臼を横にして据え、叩き台とする。この臼にクマゴの穂を打ちつけて落とすのである。これをツルオトシという。婦女子が、落ちた穂をコダタキといって槌でまた叩き、しかる後、籾トオシでおろし、次いで米ドオシでおろす。このおろし滓を二人してそれぞれが長さ四尺、直径二寸位の棒を持って向かい合い、再び「ホイサッサ、ホイサッサ」の掛け声で叩く。「座敷の方へ。」「ダヤ(厩)の方へ。」という合図で右へ左へと交互に方向を変えながら叩いて行く。こうしてまたトオシでおろす作業が繰り返されてゆくのがクマゴこなしである。
 この作業の日、夕食は先方で食べた。コダタキが終わると、煮〆、ナマス大根などで夕食を食べた。酒は出なかった。また夜の作業はコエ松を焚いてその明りで進められた。

 

 ◆1. 谷地区は旧谷村に該当する地区であるが、谷村の消長が比較的短いため、その前身である3つの村をあげておくと理解の助けになる。すなわち、塩谷、井戸谷、畑田の3村である。また谷村は旧邑智郡であることもふまえておくと、谷地区
◆2. この項は農の共同作業について、稲作での事項に追加するように入っているもので、食生活のなかで、再度くまごのことは出てくる。

 同赤来町史より
 さて明治から大正にかけての食事の概況を記すと次のようになる。この記録は昭和四十四年の夏、来島地区、赤名地区、谷地区における六十才以上の老婦人が語った若き日の食生活をまとめたものである。
 主食といえば、米三分にクマゴ七分のものだった。朝はたいていが茶粥に漬物。昼は飯に漬物。ハシマには飯に漬物。夜も飯に漬物それに煮しめ。そして自家製の味噌でつくった味噌汁があった。味噌汁の中身はそれぞれ時節のものが入れられ、タカナ、ネギ、タケノコ、ナスビ、大根など……(中略)……主食の過半を占めたクマゴはこの昭和の初めまで用い、特に谷地区ではクマゴこなしの共同作業までみられた。

◆1. 該当ページ数など不明ゆえ、要確認。勝部正郊氏の取材執筆である。
◆2. 明治から大正にかけて「主食の過半を占めたクマゴ」とまで言える状況が、谷地区のみならず来島、赤名にもあったということだろうか。ここではクマゴはアワの一種であるが、当地におけるアワはすべてクマゴであったと考えてしまう。それにしてもアワの比率が高いのはなぜかという問が離れない。作業仮説として、水田稲作と同時に取り組みやすかったのではないか。当地は(中国地方全体にいえることだが)山岳畑作地帯ではない。

 

■3.掛合町誌のクマゴ

掛合町誌』1984(昭和59),掛合町誌編纂委員会
第5章 近代の掛合地域〜四 村の生活の種々相

2食生活 主食

日に三回の主食は大正のころは米と雑穀との混ぜ合わせが多かった。特に節約して家計を締める家とか、苦しい家計をあれこれと切りまわす家では、たとい農家であっても雑穀を多く混ぜたり、朝晩あるいはどちらか一方を粥ですませたりする家も多く見られた。

 大正のころの飯は米が七に対して雑穀三の割合で、大麦・小麦・くまご(くまごに傍点)がまぜられた。このほか甘藷(さつまいも)・大根・りょうぶ(りょうぶに傍点)もまぜて補いとしたが、かつて奥飯石地域に属していた波田地区は、麦・甘藷は栽培が少なかったから、くまご・りょうぶ・大根などが多く混ぜられた。

 くまごは昭和の初めごろまでは見かけ、りょうぶは春の若葉を摘み、茹でて灰汁出しをして干し、必要なときに米に混ぜて炊いた。このくまごの割合は米七合に三合、あるいは米八合に二合程度であったが、二合のくまごが混ぜられると、炊き上がった飯はその色で黄色になっていた。

 このほか、くず米を粉に挽き、あるいは雑穀の粉で団子汁をつくり、朝晩主食のかわりとした。また、えのこという葛の根を掘り、擦りつぶして澱粉をとり、主食の補いとした。これは飢きんのとき特に大切な食糧となった。だから大正のころまでは混ぜものの入らない白い飯は、正月・祭のときくらいに限られていた。

◆1.  わかりにくいのだが、大正のころの「主食」について、米7:雑穀3 の割合としているのは、雑穀のなかに麦(大麦・小麦)を含めているところが興味深い。

◆2.  出雲地方山間部において、雑穀がまだ山間部では主食の一端をになうほどの存在感があった時代、くまごが赤来にあって掛合にあったのなら、頓原にあってもいいのだが、痕跡を見つけてはいない。

 

■4.大和村誌のクマゴ

大和村誌 p.638(第三章民俗慣習ー第ニ節食物)
(江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。

◆1.   大和村(現美郷町)は、農文協の「島根の食事」の中でくまごめしを載せている都賀の在するところである。
◆2.   米との混ぜ飯のなかで、他の地誌と比して、もっともくまご(粟)の割合が多い。この表記の仕方では判別しかねるが、粟=うるち粟=クマゴという使い方であったのかとも思われる。が、しかし、都賀の老人にくまごを尋ねた際、くまごとあわは違うということはその相違点については不確かなものの、異口同音に述べておられた。

熊子(クマゴ)のこと〜その2 - 樟の森の研究室

 

■5.川本町史のクマゴ(未稿)

 

■6.飯石郡誌のクマゴ

 『飯石郡誌』飯石郡役所編,大正7年刊の復刊として名著出版より昭和47年刊
p.527(第三章民俗慣習ー第ニ節食物)
(江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。