樟の森の研究室

斐伊川が久野川や三刀屋川と合流する地点、木次線がことことと走る線路のすぐそばに住まいし、ここで生きる術と学びを記していきます。

令和2年、ホウコ雑記

 冷蔵庫の片隅に冷凍したままのホウコが眠っている。たしか2年前のものだと思う。搗く機会を頭のなかであれこれと浮かべながら、いくつかの記録を整理しておきたい。
 思いつくままの箇条書きをまず。
1. 阿井の山野で食べたものの中でのホウコ
2. ホウコの方言分布
3. ホウコの記憶を語る木次のばあさんら
4. ホウコモチをつくる
5. ヤマボウコをまだ見たことがない
6. ホウコはなぜ木次で見なくなったのか
7. ジュンさんの歌、ハハコグサを聴いてみたい
8. ハハコグサ、ホウコについて言及しているもの
9.  農文協の食生活シリーズにおけるホウコ
10.  「モチ」と「ホウコ」
 これらのついては、簡単に加筆しながら、資料のリンク先などを追記していきたい。いずれもかつて一度はブログなどに書いたことがあるものだ。

 そして、かようなことを思い立ったのは、篠原徹の昭和48年の論文の中にホウコについてふれたところがあったため、それを引っ張っておくためでもある。
 「Ethnobotanyから見た山村生活」より

中国山地のどんな谷に行っても、そこには30戸前後の小さな部落が必ずある》
 論文はこの一文からはじまる。昭和48年9月30日受理というからかれこれ47年前。いま、令和2年の西暦2020年、中国山地の片隅に生きる身にとっては切ないような美しさを湛えている一文だ。「必ず」という言葉からは、なにか意思のようなもの、確かなもの、尊いもの、そういったものが受け取られる。いまの私たちは、必ずという言葉を使うべくもないどころか、いまにもなくなりそうな集落をあそこにもここにも抱えている。すでになくなった谷の姿などいくつでもあげられそうだ。
  つい一月ほど前に訪れた匹見の小原集落。その奥の谷にあった十数戸は、篠原が「必ずある」と記した五年後には消滅し、いまその跡形がまさに山に戻ろうとしている。それをどんな感慨と未来へのどんな意思をもって、私たちは後世に継いでいったらいいのだろう。
 

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  篠原を読むということは、単に一論文からパーツとして「利用」可能なものを取り出すという処し方に終わるものではない。そう断りつつ、ここでは、ホウコについての一節をとりだしておく。調査取材した岡山県湯原町粟谷(旧二川村)七人家族、そして広島県東城町帝釈の二人家族の例として、家族が利用する植物があげられ、「粟谷の家族の例について、以下具体的に述べてみたい」と説明が入るところである。

《ただ、この家族には現在82歳になる媼がいて、ケンザキホウコウ(ヤマボクチ)・ヨモギ・チチボウコウ(ホウコグサ)を春先採取して乾燥保存している。これは<シロミテ>(田植後の祝事)の餅搗に湯にもどして米と一緒に搗込み、餅の粘性を高めるのに使われるもので、でき上った餅は<ホウコウモチ>と称され、<カブウチ>(血縁集団)に配られる。しかし粟谷40戸のうちで<ホウコウモチ>を作るのはわずか2〜3戸で、もはやこれも消滅するのは時間の問題であろう。》

  篠原がここで「消滅するのも時間の問題であろう」と述べているのは、ホウコモチに限らず、この50年ばかり前の山村で、山野から草木を採取し多種多様に活かす生活の衰退と、利用する植物の利用と植生、双方の減少を前提にしたものである。
 とはいえ、まだまだここであげられた82歳の媼は、村々にひとりはいらっしゃった時代であり、「そういうことを知っとるばあさんらはみんないなくなった」という言葉を古老からきく現代とは明らかな線がひかれている。
 現実のものとして目の前にあるものとはちがい、私たちが見聞するのは彼岸のものだ。そのことを忘れずにことにあたりたい。ことにいま、こうしてやっているような断片を抜き出しつつ並べることに対して。そう自らを戒めたうえで、ホウコから離れて、いくつかの断片を拾っておく。忘れてはいけないが、忘れぬように。備忘という。
 篠原が昭和48年9月に行った調査、すなわち、粟谷を構成している40戸の家から年代別に13人を選び、調査したものの解説中から得たものだ。調査は「実用価値を既に失った野生植物の利用実態」について、調査表を用いて行っている。その数だけはあげておこう。食物関係121種、民間薬73種、農具・繊維・結束・籠・建材36種、神社・寺・祭用9種、炭・薪19種、その他56種である。下に図を掲げるが、およそ半分が利用しなくなったもので、おそらく今同様の調査をすれば、数%となるのではないか(やってみたいなと思う※)。

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 閑話休題。山村で実用価値をほぼ失っている野生植物について、である。

《食物関係の植物でB・C項に属するものが非常に多いことは、山村の食生活が以前と大幅に変化したことを明瞭に示して居る。特にC項(名称、使用法は聞いたことがある)に属する野生植物は、いわゆる飢饉の備荒食として知られている植物が多く、30代から60代では料理法・処理法を全く知らない人が多い。クズボウラ(クズ)、シズラ(ワラビ)の根を掘って澱粉をとった人は既におらず、わずかに70代の人がヤーヤー(ウバユリ)の根から澱粉を採ったことを記憶しているにすぎない。》
《ヤーヤーは、五月頃葉のまだあまり出ていない鱗茎のよく発達したオンナヤーヤーと呼ぶものを採取し、唐臼で搗くか、石の上で叩いた後、桶の中に入れて漉す。その水を何回もとり変えて、上澄を捨て、最後に沈殿したものを乾燥することにより、カタクリを採った。》

 

 ウバユリについては、椎葉村の話、日原の話、そして阿井の山野にあったかなかったか。大事なことは、ウバユリの根がおいしく、ふえてくれれば自家で食したいということによる。どうやって山野でふやしていくか、ということだ。これは奥出雲山村塾、森と畑と牛と、で行うことでもある。

 ウバユリが、澱粉を採取する植物として、クズやワラビから採らなくなった後にも利用されていたのは、採取時期の違いとそこにかける労力の大きさの違いによるだろう。ウバユリは量を採るのが大変とはいえ、クズやワラビに比べれば素手でも掘れなくはないのだから。

 さて、次にひとつ、年取りのことで例があるので、ひいておく。

《今は忘れられている年中行事にも、ずいぶん多く野生植物が利用されていた。正月前の12月13日を<キシクサン>と呼び、どの家でもシラハシ(ウリハダカエデ)→「松江の花図鑑」参照で正月用の箸を作る行事があったし、<オオドシ>(大晦日)にはミノサイジョウやフクナリという品種の柿を<年取柿>と称して必ず食べたものである。11月の初め頃、この柿を採り蔵に自然状態で放置しておくと<オオドシ>には渋がとれて食べられるようになっており、これを<ムシ柿>と呼んでいた。……中略……また正月の期間中、竈で燃す薪はヌリダ(ヌルデ)でなければならないとされ、正月前にこの木が大量に準備された。》

  ヌルデ→「松江の花図鑑」参照は負い木でもあって、美保神社の祭礼に用いられたのであったか(要確認)。正月に子供の玩具としてアワボッター、ヒエボッター(アワやヒエに似せて、ヌルデの木でつくったもの)があるのは、あれはどうだったろうか、など記憶の曖昧なものを改めて確かめておきたい。

 ほか、蓑の材料となった植物のこと、キノコのことなど、書き留めておくべきことが多いが、それらはまたのちの機会に。とくに蓑については書きかけのものもあるので、近々に。


 

 

 

熊子の古を拾いつつ#地方史誌其の一

熊子(くまご)と、出雲地方で呼ばれてきたアワのことについて、いまだ調べること多いものの、まとめていこうと思う。記録の散逸、記憶の錯誤をおそれる。できるところから少しずつ書き足していく方式をとろうと思う。

 あわせて、聞き取りを再開したい。その基礎資料としてつくるものでもある。

地方史誌其の一では、島根県内でのそれを中心に集めていく。順序はまた整理するとして、まだ一度も文字に起こしていない(であろう)ものから。基本的な記載法としては、全文を抜書きした後に注釈、解釈をつけていく体裁とする。

◆羽須美村誌のくまご

『羽須美村誌(下)』昭和63年,羽須美村誌編集委員会

第五項 くまご(こあわ)

 麻畑の後作として、「くまご」を栽培した、これは麦と共に米の補給物として重要なものであった。
 麻刈りした畑に、ほとんどがバラ蒔きをしていたので、水田の除草や、養蚕の合い間を縫って、手入れをするのだ。手入れといっても主に、間引きと除草である、真夏の太陽のもとでの仕事であり、手間のかかる作業なので、編み笠や、すげ笠、後にはコーモリ傘をさして行った。しかも一番間引き、二番、三番と、三回間引いて丈夫なものを、程よい間隔に残しながら雑草も取ったが、道具とてもなく素手の作業である。
 年によっては、「ホージョウ」と言う害虫が大発生して、一日二日で、丹精こめた「くまご」が葉も茎も無惨に喰い荒されて、収穫皆無と言う年すらある。除法もなく、僅かな発生なら、捕獲駆除もしたが、大発生には全くお手あげであった。

一、収穫

 一穂一穂を、穂を揃えて両手に一杯になると、根元より引抜いて、茎を適当な長さで切り一把にして、干架に掛けて乾燥する。

二、脱穀

 脱穀は、麦と殆ど同じ方法で、打台にたたきつけて穂を落とすのであるが、これも隣同志で手間がえで行うことが多かった。
 打ち落とした穂や粒は、蓆の上で、ブラ槌や、槌でたたいて、粒とし「大ドウシ」にかけて、粒に穂や雑物に選別し、雑物や穂は更にブラ槌等でたたいて、トウシに掛ける等数回繰り返し、粒はトウミに掛けて、小さいごみと粒に仕分けして、一応完了であるが、この作業も、大変な、ちりの中の作業で、全身汗とほこりとの闘いであった。反収二石も穫れれば上作である。
 この「くまご」も年々減少して昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。
 昭和の初期までは、常食として米に混ぜて、ご飯に炊いていた極めて重要な食糧であった。御飯一升について二合ー四合(二割ー四割)を混ぜて食した。炊きたての温かいうちは、黄色で香りもよく、食べ易く味も悪くはなかったが、一旦冷えると、香りもなくボロボロして食べ難いものであったように記憶している。

◆1. 執筆者自身の食味に関する記憶が記されている。注視したいのは、くまごを「こあわ」とカッコづきで見出しにたてていること、そして麻の後作として栽培した旨である。今まで見てきたなかで、「こあわ」とはっきり書いているのはこの羽須美村誌のみ。アワは春蒔きの春アワと夏蒔きの夏アワに大別する分類があるが、羽須美村誌が記すくまごは夏アワである。夏アワであることが明白なものとして、出雲国産物帳の飯石郡絵図注書認指出帳の「八月熊子」がある。
◆2. 飯石郡絵図注書認指出帳の「八月熊子」には、「五月畑に種を蒔、八月熟、八月熊子と名附申候」とある。新暦でいえばおよそ六月中旬に播種、九月中旬に収穫ということだろうか。生育日数は90日ほどと短い(夏アワの生育日数は90〜130日)。また、この文書で注目したいのは熊子の特徴について「粟とほぼ同じだが、芒のないのが熊子だ」と説明していること。「粟同然に御座候え共、いぎ無御座に付、熊子と申候」。「いぎ」は芒のことだろう。
◆3. 上記1,2から羽須美村誌におけるくまごは、次の特徴をもつ。
・夏アワ
・コアワ
・ウルチ種
・脱ぷ後の色は黄色
◆4. 調製道具について……打台は大きな板のようなものであろうが、据え方など詳細は不明。ブラ槌と槌を併用しているところが興味深い。ブラ槌で荒くたたいて、小さくなるにつれて槌にかえていったのではなかろうか。次にひいた赤来町(谷地区)の調製が詳しいので比較するによい。
◆5. くまごを食したのは羽須美村全域であったのか……《昭和十五、六年頃より極度に少なくなり、三十五、六年に至って殆ど姿を消してしまった。》という変化は日本の山村における雑穀食に起こったものとほぼ同様である。もう少し詳細を掘り起こしてみたいものだが、羽須美の場合も、次の赤来(谷地区)の場合でも、手間がえ・てまがいと呼ばれた隣近所の共同作業で脱穀をしていることが、いったい何を物語っているのか、それを読み取ることからだろう。

◆赤来町史のクマゴ

 『赤来町史』1972,赤来町史編纂委員会 編
 第6編 赤来町の民俗〜
クマゴこなし
 谷地区では稲のこなしが済んで十一月に入るとクマゴこなしが各部落でてまがいにより行われた。クマゴは粟の一種で米に混ぜて炊いたもので、谷では昭和初期まで常食としていた。米一升にクマゴ一合を、多く混ぜる家では二合〜三合を混ぜて炊いた。なお、クマゴをたくさん作る家では三石〜四石も収穫した。
 「今日はうちにクマゴを叩きゃあ思いますのでお願いします。」と田植え組(五、六軒〜七、八軒)へ依頼する。この作業は夕方から夜にかけて行われ、依頼を受けた家から二名ずつぐらいが、それぞれ籾トオシと米トオシを持って集まる。まず稲をおろした跡のハデ(稲架)からクマゴをおろし、臼庭へ運ぶ。次に臼庭へ苫を立て四畳半ぐらいの広さに三方を囲む。その中に餅搗臼を横にして据え、叩き台とする。この臼にクマゴの穂を打ちつけて落とすのである。これをツルオトシという。婦女子が、落ちた穂をコダタキといって槌でまた叩き、しかる後、籾トオシでおろし、次いで米ドオシでおろす。このおろし滓を二人してそれぞれが長さ四尺、直径二寸位の棒を持って向かい合い、再び「ホイサッサ、ホイサッサ」の掛け声で叩く。「座敷の方へ。」「ダヤ(厩)の方へ。」という合図で右へ左へと交互に方向を変えながら叩いて行く。こうしてまたトオシでおろす作業が繰り返されてゆくのがクマゴこなしである。
 この作業の日、夕食は先方で食べた。コダタキが終わると、煮〆、ナマス大根などで夕食を食べた。酒は出なかった。また夜の作業はコエ松を焚いてその明りで進められた。

 

 ◆1. 谷地区は旧谷村に該当する地区であるが、谷村の消長が比較的短いため、その前身である3つの村をあげておくと理解の助けになる。すなわち、塩谷、井戸谷、畑田の3村である。また谷村は旧邑智郡であることもふまえておくと、谷地区
◆2. この項は農の共同作業について、稲作での事項に追加するように入っているもので、食生活のなかで、再度くまごのことは出てくる。

 同赤来町史より
 さて明治から大正にかけての食事の概況を記すと次のようになる。この記録は昭和四十四年の夏、来島地区、赤名地区、谷地区における六十才以上の老婦人が語った若き日の食生活をまとめたものである。
 主食といえば、米三分にクマゴ七分のものだった。朝はたいていが茶粥に漬物。昼は飯に漬物。ハシマには飯に漬物。夜も飯に漬物それに煮しめ。そして自家製の味噌でつくった味噌汁があった。味噌汁の中身はそれぞれ時節のものが入れられ、タカナ、ネギ、タケノコ、ナスビ、大根など……(中略)……主食の過半を占めたクマゴはこの昭和の初めまで用い、特に谷地区ではクマゴこなしの共同作業までみられた。

◆1. 該当ページ数など不明ゆえ、要確認。勝部正郊氏の取材執筆である。
◆2. 明治から大正にかけて「主食の過半を占めたクマゴ」とまで言える状況が、谷地区のみならず来島、赤名にもあったということだろうか。ここではクマゴはアワの一種であるが、当地におけるアワはすべてクマゴであったと考えてしまう。それにしてもアワの比率が高いのはなぜかという問が離れない。作業仮説として、水田稲作と同時に取り組みやすかったのではないか。当地は(中国地方全体にいえることだが)山岳畑作地帯ではない。

 

掛合町誌のクマゴ

掛合町誌』1984(昭和59),掛合町誌編纂委員会
第5章 近代の掛合地域〜四 村の生活の種々相

2食生活 主食

日に三回の主食は大正のころは米と雑穀との混ぜ合わせが多かった。特に節約して家計を締める家とか、苦しい家計をあれこれと切りまわす家では、たとい農家であっても雑穀を多く混ぜたり、朝晩あるいはどちらか一方を粥ですませたりする家も多く見られた。

 大正のころの飯は米が七に対して雑穀三の割合で、大麦・小麦・くまご(くまごに傍点)がまぜられた。このほか甘藷(さつまいも)・大根・りょうぶ(りょうぶに傍点)もまぜて補いとしたが、かつて奥飯石地域に属していた波田地区は、麦・甘藷は栽培が少なかったから、くまご・りょうぶ・大根などが多く混ぜられた。

 くまごは昭和の初めごろまでは見かけ、りょうぶは春の若葉を摘み、茹でて灰汁出しをして干し、必要なときに米に混ぜて炊いた。このくまごの割合は米七合に三合、あるいは米八合に二合程度であったが、二合のくまごが混ぜられると、炊き上がった飯はその色で黄色になっていた。

 このほか、くず米を粉に挽き、あるいは雑穀の粉で団子汁をつくり、朝晩主食のかわりとした。また、えのこという葛の根を掘り、擦りつぶして澱粉をとり、主食の補いとした。これは飢きんのとき特に大切な食糧となった。だから大正のころまでは混ぜものの入らない白い飯は、正月・祭のときくらいに限られていた。

◆1.  わかりにくいのだが、大正のころの「主食」について、米7:雑穀3 の割合としているのは、雑穀のなかに麦(大麦・小麦)を含めているところが興味深い。

◆2.  出雲地方山間部において、雑穀がまだ山間部では主食の一端をになうほどの存在感があった時代、くまごが赤来にあって掛合にあったのなら、頓原にあってもいいのだが、痕跡を見つけてはいない。

 

◆大和村誌のクマゴ

大和村誌 p.638(第三章民俗慣習ー第ニ節食物)
(江戸から明治にかけての食として)主食は米三分、クマゴ(粟)七分で、時によって粟のかわりに麦、甘藷、または大根や菜葉を細目に刻んだものを混ぜて炊いた。

◆1.   大和村(現美郷町)は、農文協の「島根の食事」の中でくまごめしを載せている都賀の在するところである。
◆2.   米との混ぜ飯のなかで、他の地誌と比して、もっともくまご(粟)の割合が多い。この表記の仕方では判別しかねるが、粟=うるち粟=クマゴという使い方であったのかとも思われる。が、しかし、都賀の老人にくまごを尋ねた際、くまごとあわは違うということはその相違点については不確かなものの、異口同音に述べておられた。

熊子(クマゴ)のこと〜その2 - 樟の森の研究室

 

◆川本町史のクマゴ

 

 

 

残暑きびしくも森の中はすずしく、山ウツギの花かおる

「今日は山へは行かれますか」
「いやあ行けません。倒れますわ」
と、言ってはみるものの、じつは行っている。山というと、眺めのよい景色のある登山でのぼるような山をみなさん、イメージされるようだ。が、山もいろいろ。標高250〜400mくらいのところでも、少し中に入ってしまえば、猛暑日でもすずしいものだ。たいがい。標高600m超の山を背後にもつところや、水を保持しているような水源の山の水脈があるところ、などが条件だろうと思う。

 昨日も、この林のなかで、古竹や倒れかけた杉を片付けたりしたりしていた。時刻は11時から13時ごろ。外の気温は35℃前後だったが、汗だくにまではならない。ここは林縁に近く、ふつうは涼しくはないのだが、この竹林のおかげだろうか。そして水源地からの水脈がこの下を通っているはずで、そうしたことも大きいのだと思う。荒れてはいるが、気持ちよさがある場所だ。

 そして、この竹林が果てるところに咲いていて、気になっていた、ジャスミンの香りがする木の花。調べてみると、クサギの花だ。木の野菜としてかつては食されていたらしい。佃煮がうまいともある。木の実は青の染料になる。媒染剤なしでも染まるのだとか。秋に春にためしてみたい。

出雲国産物帳でみてみれば、おそらく「山ウツギ」がクサギに相当する。なぜ山のウツギと呼ばれていたのか。境界木としての徴をおびていたのか。気になることいろいろ。なにごとも、少しゆとりをもってすすめると、風景の映り方が豊かになるものだな。

 

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「コリーニ事件」を観て

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昨日、映画「コリーニ事件」を観た。しかも出雲で。これは劇場貸切かと思ったが、妻とあわせて3人の観客だった。T.ジョイ出雲で9/10まで。行ける人はぜひと思う。理由と見方などいくつか。
◆予告編など一切目にいれずにふらりといくのがいい。この映画の最大の特徴、それは誰もが少なからず当事者として「現場」に立ち会えること、だと思うから。舞台は法廷。法は正義を実現できるか。正義とはなにか。……そう問いかけてくる。リアルに、ひとりひとりに。ドイツでは現実に、この映画(の原作の反響)が発端となって、立法府が委員会を立ち上げたという。
◆真実が解き明かされる。正義が悪を粉砕する。そういうものではまったくない。真実はどこにあるのか。ーー公文書館の中に眠る膨大な記録の中の平凡な事実、発言すらない評議会の出席者名簿、墓碑銘の生没年……?。しかし、法廷で資料として提出されるそれらは糸口でしかない。問われているのは、人の心、悲しみも喜びも慈しみも、それらをすべる何が許されないことなのかという正義の感情。そこにぐいぐいとせまってくる。
◆ありがちだが、日本のポスター、予告編はちょっと。なので、ドイツのそれを。原作は邦訳の文庫もあり。作者フェルディナント・フォン・シーラッハは弁護士、そして……。
「コリーニ事件」フェルディナント フォン シーラッハ著、酒寄 進一訳、2017,東京創元社
トスカーナの美しい風景やドイツの建築、街や調度、服飾、さまざまな意匠を「観る」楽しみもある。
◆殺害シーンや法医学のシーンなど、ショックの強いシーンがいくつかあるので弱い方は目を伏せるか、おやめになったほうがいいとは思う。ただ目を凝らしてしっかりみることが、読解・解釈の深化につながっており、はずせないものでもある。「よく見るんだよ」と。
◆黙秘を続けたコリーニは、映画の中では、その心を開いて語ることができた。しかし、本当に語られるべきこと=言葉にされるべきだったことはもうひとつある、と思う。それは観る人によって、その当事者性によってそれぞれにもまたあるものだろう。
◆総じていうなら、あぁ、よかった、で、終わる。そうした浄化感のある映画であるにもかかわらず、問いがいつまでもぐるぐると頭のなかをめぐる。いわゆる重いテーマとか、考えさせられる、といったものではない。つまりは本気で正面からぶつかっていて、逃げていない。それが生きている現実の希望につながりえている。帰りの車中、月をみながら妻がつぶやいた。「映画じゃなかったみたい」。そう、いい映画である。
 

荒れた森にこそ未来は開けている

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◆数日前に、奥出雲のいくつかの「山」をみてまわりました。参加者の多くは自分で自分の山を手入れしているきこりさんたちだったのですが、みなさんの心を強くひきつけていたたのは、見ても入っても心地のよい、美しい森ではなく、見捨てられ荒れ果てて見える森でした。ここ数日、そのことをつらつらと考えるに、ふたりの言葉を思い出しながら反芻しています。
◆ひとりは徳島の林家、橋本光治さんがレクチャーの中でおっしゃっていたこと。
「間伐も枝打ちもしないで放棄されたこういう山ですけど、まんざら悪いものじゃないんです」
「(師匠に教えを求めたときに)道をつけるのは、この葉っぱを見習えといわれました。葉脈があるでしょ、ここから学べといわれ最初、途方にくれました」
「(仕事を息子を任せるときに、好きなようにやれと、ただしひとつだけ守れと言ったことがあります)。(山に)道をつけるときには、虫一匹殺すな」
◆もうひとりは、フランスの作庭家、ジル・クレマン。
「(この庭の植栽は)虫から教わるのです。虫は弱い存在です。だから、植物と動物との間にたっている」
「荒れ地。それは閃く秩序の美的なうつろいであり、時間のかけらを照らす束の間の出会いなのだ」
「人間がそう感じるのとは逆に、荒れ地は滅びゆくこととは無縁であり、生物はそれぞれの場所で一心不乱に生みだし続けていく。荒れ地を散策していると、たえずものごとを考え直さないといけなくなる。なぜならそこではあらゆることが起こり、もっとも大胆な推測でさえも覆されてしまうから」
オリゼの庭も、森と畑と牛との森も、そこに命を吹き込む生物の流れに、人として入り込み方向づけることを狙いとしているのですが……。はてさて。

 

奥出雲における「わに」の刺身について

 それは先週、8月8日のことでした。立ち寄った隣町奥出雲町のスーパーで、目的の品をかごに入れ、そそくさとレジに向かう途中、どどんとばかりに「わに」肉が陳列されているのを見つけてしまったのです。刺身用の新鮮なものです。「わに」ことサメの刺身は、これまでも何回か目にしたことはありましたが、棚の一角を大きく占める光景は、はじめて遭遇するものでした。買ったことも食べたことも一度もなく、今がそのときとばかりに一番安く小さなものを入手したのです。
 サメのことをワニと呼ぶ地域圏がどの程度ひろがっているのかは定かではありませんが、少なくとも関東、東海、近畿地方では通用しないと思われます。乏しい経験からの臆見ではありますが。
 わにの肉は、島根県から広島県にかかる江の川の上流域では郷土料理、とりわけ正月には欠かせないものでした(過去形)。その名残は今でもあって、食べることはなくとも、ワニといえばサメということで、この地域のほとんどの人に通じます。
 江の川流域とは少しずれますが、隣接する現飯南町、現奥出雲町でもワニはそういうもの、すなわち正月、そしてお盆の行事の食べ物として、そして日常的にも食卓に並んでおかしくはないものです。
 それにしても、安いなあとこの時には思ったわけですが、本日すなわち8月14日、またも思わぬところで同じわに肉に出会ってしまいました。
 現場はわにの刺身を、行事はおろか日常的にも食することはない斐川町のスーパーです。実家の墓参りの帰路立ち寄ったのですが、山陰沖でとれたものであることは先の奥出雲と同様。
 そして、実家の墓参りに行った際に「今年は(COVID-19のこともあり)お盆は皆さん控えるということにうちもした」と聞いたことを思い出したのです。
 そう。お盆になれば売れるはずのものが、今年は売れない。だからたたき売りと、ワニを食べないところでもダメ元で並べてみようと。そういうことなのでしょうか。
 私が見た斐川のスーパーでの売値は奥出雲のおよそ半額でした。
 また、それらに加えてとれすぎたということもありえます。今後、注視していきたいと思ってます。
 味のほうはといえば、昔と違って新鮮な刺身ですから、くせもなく食べやすいものでしょう。サメといっても幾種類かあって、部位などによっても味わいは異なると聞きますが、私が食べたこのサメ肉はさっぱりとした、しかしこれといった癖がなさすぎて、またほしいかといわれれば微妙です。
 一方で、うまいうまいと行って昔の人が食べていた、とろけるようないい意味での臭みの強いものを、一度食してみたいとは思うのです。今日もふとその衝動にかられはしたものの、夏だし、やるんなら冬のほうが、と、思いとどまったのでした。

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 さて、もうひとつ、気になっていることがあります。
 このワニを年取り魚として食するようになったのはいつ頃からかということ。
 いくつか論文・論説もありますので、ファイルを引きずりだせばある程度はっきりするはず。たしかそう古くはないはずなのです。江戸後期ではなかったか。どなただったか研究者の方が、宿帳を調べて指摘しておられた最初の頃の年代がそうではなかったかと。曖昧ですので、これは宿題。
 や、そもそも年取魚そのものが新しいはずで、奥出雲、掛合、飯南あたりだと、やはり鰤の記述が多く、塩鱒、鯨も出てくるのですが、和邇のことは史誌では見た記憶がありません。
 このあたり、年取り蕪とも関わることなので、注視すべきこととして備忘とします。
 
 

スペルト小麦と夏野菜のマリネ

カフェ・オリゼの裏にある「オリゼ畑」で育てているスペルト小麦。
夏野菜のマリネとしてランチにお出ししています。
玄麦。
スペルト小麦は、古来つくりつづけている地域では粒で食することが多いという論説をみたことがあります。そうでなくても、粒でとれるのなら粒でとったほうが歩留まりはいいものです。粒食・粉食の違いと変遷についてはもろもろあるものの、いま、ここでは技術的にも経済的にも粉にはできないので、選択の余地なく粒食なわけです。
なにより大事なことは、これ、うまいということ。くせになりそうです。
来年は作付けをふやそうかと思います。土地はないのですけれど。なので畑以外でどう育てるか、それをいろいろ模索しています。

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令和2年7月下旬の山墾り

梅雨のあいまにひとしごと。
◉夏に花を咲かせる樹々をたしかめる〜7月22日
 あれ、こんなところにもと。夏に花を咲かせる木が、山墾りをしている岩内地の谷にはたくさんみられます。現在、頭のなかに入れ込むだけですが、子供向けの体験が本格化したら、マッピングしていきたいものとして記しておきます。
 まず、ネムノキとカラスザンショウ。今年はずいぶんと長く咲いている気がします。陽樹、先駆種ですが、アラして若い山なので、多く見られるのでしょうか。これが道隔てて古い山になると、がくんと減るところもおもしろくわかりやすいです。
 下のはリョウブでしょうか。藪に隔てられ近くにまで寄れず、次回あらためてたしかめます。f:id:omojiro:20200725111446j:plain
茗荷畑をたしかめる〜7月22日
 竹藪を伐開した山は、日の光の入り方のみならず、風の通り方、土中の水の流れもかわり、周辺の植生が大きく変わっていくことを、体感することができます。明るくなった、地面のかたさが違うといった、わかりやすいレベルから、精妙とも気の所為ともいえないものまで。
 高木が竹にまじって残っていた場合、たくさんの実生が春から背をのばしはじめます。小さな小人が森から出てくる感じ。
 そんななかで、今年めだったのは、ミョウガがどどんと出現したこと。もともとあったのでしょうが、なぜ目に入らなかったのか不思議。多少間引いたほうがよいのでしょうが、まずはこのまま。
◉ことしの焼畑アマランサス〜7月22日
 6月23日に火入れして、翌日にヒエとまぜて播種。ヒエもわずかですが、この中にまじっています。6月下旬播種は発芽も早く、梅雨に入っていれば初期成長も早いので、秋の長雨や台風にぶつからなければ理想的ではあります。以下、予定(予想)と基本情報。
6月24日播種…播種量不明。0.5aほどに20gほどはまいたでしょうか。通常の畑地栽培の場合、10aあたり20〜24gが適量のようです。発芽適温27℃〜29℃。要地温17℃以上。
7月中旬〜下旬に間引き…すればよかったのでしょうがほぼやってませんで、8月1日にやりました。
8月4日〜10日…柵づくり(牛侵入防止)
8月20日開花…発芽から50〜60日後に開花する。
9月30日〜熟期…開花から40〜50日で収穫。
10月10日までには収穫といったところ。秋雨にぶつかりそうなので、実の入り方などをみながら、順次収穫とみておきましょう。
収量は通常の畑地栽培の場合で、200kg/10aというのが基準のようだ。5kgとれれば上出来かと思う。f:id:omojiro:20200722153747j:plainAmaranthus cruentus

◉畑の草刈り〜7月25日f:id:omojiro:20200725120921j:plain草刈りはそのときどきで、少しずつやっています。

野老を見つけた日に

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 おそらく鬼野老だと思う。一昨日やっと見つけた。探しているときには見つからず、忘れた頃に、こんなところにあったのかと驚くのはいつものこと。そして、7月下旬の今頃が目立つということでもあろう。花をつけるのもこれからだ。トコロを食べる会として、蔓延って困っているというところからは根こそぎ持ち去りますので、ご一報ください。
 令和2年現在、ウェブで散見するに、数年前の記事では青森、山形では、道の駅でも売られているとか。山陰ではまず見ないし、聞くこともない。山陰での地方名については不明。出雲国産物帳にもそれらしい記載はない。
 トコロと名のつくものはいくつかある。
・アマドコロ(甘野老)
・ヤマアマドコロ(山甘野老)
・ウチワドコロ(団扇野老)
・カエデドコロ(楓野老)
・キクバドコロ(菊葉野老)
・ヒメドコロ(姫野老)
・タチドコロ(立野老)
 が、通常、トコロといえば、オニドコロ(鬼野老)、すなわちヤマノイモ科のDioscorea tokoro Makinoをさす。いつのころからなのか。仮に江戸時代中期以降と見立て、その嚆矢を元禄時代とみてみよう。『本朝食艦』を著した人見必大とて、トコロという呼称の由来については不詳としている。漢名は山萆薢、生薬名は「萆薢(ヒカイ)」というのは誤用のようだが、よくあることで、気をつけたい。また、必大は野老の栽培も多いということにふれ、栽培したものの毒性についてふれている。言及こそないものの、山野の自生したものが用いやすいということか。さらに、栽培は食用ではなく、生薬にするためのものであったであろうと。さらに進めて、元禄の頃よりトコロを日常に食することが減っていったのだろうと、今は見ておこう。元禄の『本朝食艦』から五十年ほど時代をくだって弘化の『重訂本草綱目啓蒙』になると「味ニガク食フベカラズ」と記され、干して春盤の具(正月の供物)とすることや奥州、阿州では上巳の節句に用いるのだ等、文字の知識と儀礼に残るだけのものとなっていく。
 僅かな文を手がかりに、時代を室町、鎌倉、平安にまで遡れば、いま少し違う風景も見えてくるようで、そうしたことからの臆見に過ぎないが、トコロを食べてみようという向きにはそれでも有用なのだ。
 蛇足ながらの付言をふたつ。
 日常の食とはいっても、嗜好食である(あった)ことは、野本寛一が『栃と餅』2005,岩波書店で記していることからも推し量れる。野本氏が口にしたその食味とあわせて平成15年3月2日に新潟県岩船郡山北町山熊田での出来事をその書からひいておこう。

《こうして仲間が集って手仕事をする時や、家族がイロリやストーブの回りに集まって団欒する時、煮あげて笊に盛ってあるトコロの皮を小刀や果物ナイフでむいて楽しみながら食べるのだという。ーーキヨ子さん(大正12年生まれ)は包丁で手際よく皮をむき、食べてみろと勧めてくれた。
 色は薄い飴色に鬱金色を混ぜたような色である。口もとへ運んだ瞬間、微かな芳香が鼻孔を刺激した。口に入れて噛む。ねっちりとした歯応えがあってホロ苦い。苦いけれども口が涼しい。歯応え、舌ざわりは山芋を輪切りにして煮たものに近いがそれよりも弾力性がある。爽やかな香気がある。苦いが抵抗感は湧いてこない。》

 山北町村上市)は山形県鶴岡市と接し、むしろ山形であると、町の方から聞いたことがある。山北町焼畑でつくられる赤カブは鶴岡市温海の温海カブと名称こそ違え、ものは同じであるようだ。そうしたこともこの話の糸のひとつ。食べてみるといえば、島根県内で毎年、口にしているところもある。美保神社の青柴垣神事。供物の中でも野老は重要なもので、當屋が供物であるトコロいもを海中で洗う「野老洗い」は欠かせない儀礼となっている。今現在どう調理されているか、野老はどこから取ってくるのか等、確かめるべきことも多い。山形地方から贖っているということを論文で見た記憶があるがすぐに取り出せないので勘違いかもしれない。この糸は、山陰は元来白カブを地カブとする地域なのだが、津田蕪をはじめ、米子蕪、飯島蕪と赤カブが沿岸地域に存在する(してきた)。その北の縁と、里芋・生姜・茗荷とつながる南の縁をつなげることに、意味はある。

 もうひとつは、舞狂言の「野老」である。
 幽霊となってさまよう鬼野老の霊を僧が供養するのだが、野老の精が延々とその身の上を語るところが主話となる。
 能楽研究所が蔵しウェブ公開されている「天正狂言本」からその冒頭をひく。画像に朱で示したところ。

f:id:omojiro:20200719131555j:plain《そもそも山深きところを
鋤鍬にて掘り起こされて、
三途の川にて振り濯がれて、
地獄の釜に投げ入れられて、
くらくらと煮ゆらかしていませるところを
慈悲深き釈尊(杓子) に救い(掬い)あげられ……》

 続きも笑いをこらえるところなのだろうが、目をこらすべきは「山深きところ」。野老は山深いところだけにあるわけではない。これは舞狂言がそうであるように、この夢幻のなかで野老を食していたのも、それを供養しているのも、当時のいわゆる農民や僧ではなく網野善彦いうところの「道々のもの」であることを示している。漂泊するもの、だれにもどこにも属することなく、諸芸職工を懐に道の上に生を全うし歴史から消えていったもの。そうしたものの霊こそが慰められている。
 野老は道々のものが、楽味とし、滋養としたのだろう。合歓木の花咲く夏の日、鮮やかに静かに葉を茂らせるその姿に夢想した。
 さて、どこまでか、たどれるところまでそれを追い、食べてみよう、というのが、トコロを食べる会の趣意である。



 

木次線の終電に想う

飲んで終電で帰るなんて何年ぶりだろう。しかもこれが人生最後、かもしれないなと思い記念に撮影。f:id:omojiro:20200712201649j:plain あと30分ばかりは残っていたビアガーデンの宴席を辞し、急ぎ足で橋を渡り、歩道を横切って無人の駅の改札を抜ける。ちょうど一両編成のディーゼル車がホームに入ってきた。ドアが開き、整理券を抜き取って席につく。ほかの乗客はいない。その木次線出雲三成駅から終着である木次駅まで所要35分。

乗車してから、人が乗り込むことも降りることもなく、窓の外は深い闇。意識はさえてきて酔いが遠のいていく。下久野から日登の区間は時折、窓ガラスに木の枝がこすれていく「ざざーっ」という音が、現実の安心感すら与えてくれる。20時50分、終着であった駅につくと、車掌が運転席から出てきた。あぁ人はいたのだ。運賃をその場で渡して、ホームに出ると、そこにも駅にも人影はない。駅前には一台のタクシーのなかで運転手がなにやら見ている姿が見えたが、ほかに人の姿はない。下りの最終便を待っているのだろうか。そこから歩いて家に帰ってきたのだった。

 さて、闇の中を通り抜けた帰路と違って行路は夕刻であり、車両も2両編成で、数名の乗客があった。そして車窓からはいつもと違う風景がのぞめて新鮮であった。気づいたことなどいくつか記しておきたい。

 下久野に2軒ほどかぶせものをしていない「生の」茅葺き民家が見えた。驚いた。どちらもよい状態には見えなかったが、あぁ、すぐでにも降りて訪ねてみたい衝動にかられる。訪ねてどうなるというものでもことでもないのだが。

 夕刻ということもあるのか、線路脇の道にたつ親子が、楽しげに列車を眺めている姿をみた。なんと言っているのだろう、母の口が動くのが見える。そして列車に、すなわちこちらに向かって笑顔で手を振っている。

 鉄道というものの本質がその向こうに見えるような気がしてならない。車が走る道路とは違うなにか、なのだ。その何かについて、また思いついたことを記していきたい。