樟の森の研究室

斐伊川が久野川や三刀屋川と合流する地点、木次線がことことと走る線路のすぐそばに住まいし、ここで生きる術と学びを記していきます。

パリでもニューヨークでもなく木次のカフェで

「パリやニューヨークのような文化を発信するカフェがやりたかった」。という一文を目にして、言わんとすることはわかるけど、、、。としばし黙考した3分をリフレインしみてよう。

「文化の発信」への違和感

 類似表現はあまたあって、情報の発信だとか、発信基地だとか、横文字にするとハブだとか。よくわかんないんだよね、ずーっと。【受信する=消費する=受け身である】立場にいる人が、そのポジションを逆転させることを言うのだろうね。アマチュア的というか、アマチュア無線的というか、そんな感じ。だって、表現者・発信者の立場にある人は「発信していきたい」とは言わない。

 ただ、この使い方の微妙なところは、発信という語義からして不特定多数への「伝達」を企図しているのだから、アマチュアがそれをやるのはもともと無理筋な点だ。だから「発信していきたい」というような願望・希望を込めて使われているのであって、ガチで発信するつもりはもともとない。「つもり」でやるわけだから、本当に発信できているかどうかは問われない。

 そして、「文化」は発信するものだろうかという大いなる疑問もある。

 平凡社の世界大百科事典をひくと……、

日本語の〈文化〉という語は〈世の中が開けて生活水準が高まっている状態〉や〈人類の理想を実現していく精神の活動〉を意味する場合と,〈弥生文化〉というように〈生活様式〉を総称する場合とがある。

 

 文化の発信は、使われ方からすると前者の意味が強いようでいて、特定の様式なりセクトなりの価値伝達ともとれる。そして、類義と思われる「趣味」に近いものだ。日本のJIS履歴書の中には「趣味」の欄があって、「仕事」の「趣味」のふたつからなる人物の紹介が公的にも私的にもスタンダードであることを連想させる。

 ここでいう趣味と文化の共通点は、仕事の世界では価値とされないものの集合体である。非生産的であり、非効率的であるもの。そして仕事の禁欲性に対しての享楽性。いずれにしても仕事の補完物でしかない位置づけでの、趣味=文化である。

 

 そんな飼いならされた、産業の下僕としての文化など、発信してもしょうがなかろうに。と、思うのだった。それが私の感じた違和感。パリでもニューヨークでもベルリンでも、文化のあるカフェには対抗性があるのではないか。端的には批評文化である。あぁ、ごめん、これはステレオタイプなものいいでまとめるけれど、発言内容と発言者を区分できない日本のコミュニケーション様式に問題がある。これまで日本では、ディベートや対話のあり方の変革を多くの人が政策や教育界や産業界も巻き込んで、大なり小なり挑んできたが果たせていない。

 もっとも、批評空間は、パリのような哲学的な街でも容易ではない。だからこそ、小さな空間をサンクチュアリとして、その格好の場としてのカフェが、その空間たり得たのだ。そこから結果として文化が発信されていたし、いまでもそれはある、きっと(願望)。

 

 日本でそれは可能か。できるかということをこれから実験してみる。パリでもニューヨークでもなく島根の小さなまち木次で。

 名前をナレッジ・ロフト「本とスパイス」という。12月にひっそりとはじめる第1回のテーマは「サンタクロースの秘密」。内容についてはまた改めて。