樟の森の研究室

斐伊川が久野川や三刀屋川と合流する地点、木次線がことことと走る線路のすぐそばに住まいし、ここで生きる術と学びを記していきます。

甘味の変遷―備忘録001〜砂糖はどのように普及したのか

 石見のほうから奥出雲に引っ越してきて、煮しめを筆頭にありとあらゆるものが甘いのに驚いた。砂糖の使い方が半端ないのである。いつからどのようにこうなってきたのかを知りたく思って3年あまりが経過した。「いつごろから」の端的なこたえは「戦後から」。明治の終わりから大正のはじめにかけての変化とともにある。前にも記したが、種の通販が村々にも入るのが同じ時代だ。ただ、石見の山奥もそれは同様。出雲(奥出雲)と石見の砂糖使用の差異はどこから生じているのか。吉賀町蔵木をまず見てみよう。

 

 吉賀奥”蔵木村”民族誌という章が、石塚尊俊2005『暮らしの歴史』(ワンライン)の中にある。氏の旧稿から拾遺してきたもので、軽い読み物ふうの体裁だったのだが、さらっと読もうとぺーじをあけたら、びっくり。なかなかに貴重な記録が含まれている。

 石塚は津和野・日原の古老がこう語るのを聞いてしまう。

「同じ鹿足郡でも吉賀の奥は里部とだいぶ違う、ことに蔵木の奥となると、まるで原始時代そのままだというような話も出てくる」

 そこで、どうしても一番奥まであがってみたいと訪ねていくお話である。昭和20年代はじめのことだ。古老の言う「一番奥」とは、吉賀の金山谷と河津のことである。金山谷は4年前か、近世史研究者で茶道家の高山氏をお招きしフィールドワークと講演会を主催したときに訪れた土地である。髙山氏は大変昂奮しながら、ここは古い、文書や伝承でしかふれたことのない隠れ里がまさに今目の前にあるようだと、おっしゃっておられた。石塚氏も蔵木の村役場で取材するうち、「この二地区(金山谷・河津)が西中国山地では最も古い土地であるやに思われてきた」と残している。

 そうかもしれない。ただ、その古い地層のようなものが、いまどこにどのように残っているか、そこまでたどれるかが問われる。預かっている『吉賀記』を開き直し、行ってみたいなあ、また。

 閑話休題

 さて、本題の砂糖。

 蔵木村の民俗調査からの抜書であろうか、山陰民俗9,昭和31年2月からのものとして、項目別に記述があるところから砂糖の項がある。

《[砂糖]調味料として、味噌・醤油はすべて自家製、砂糖は金毘羅まいりの土産などに少しずつ買ってきて配るくらいのものだったが、大正四、五年ごろから一般化した》

 ほかにおもしろい記述をいくつかあげておく。砂糖から脱線し続けるけれど。

《[食器]昔は羽釜はなく、全部鍋だった。それが漸次羽釜にかわったのは、羽釜そのものの普及もさることながら、そこにはまた、雑穀を主とした炊事から、米を主とした炊事への飛躍もありはしないか。茶碗や皿も昔は木のゴギで、塗ってはいなかった。膳は丸い盆で、箸はコウゾの芯でつくった。焼物はカガツ(唐鉢)でもドビンでもほとんど素焼きだった。摩棒のことをデンギという》

 そして、なぞの山芋、モメラのこと。なんだろう。《雑穀時代によく摂られたものにモメラがある。牛モメラという大きい方のは食えないが、普通の小指の先ぐらいのものを四月ごろ採り、えぐいから一日中煮、それに醤油をつけて食う》と。

 砂糖のことがすっかり飛んでしまった。改めて加筆することにして、締切3つをとっとと仕上げる。最後に補助線を3つ。

・山間部における甘味として柿の皮を干して粉にしたものはかつて多用されていた。

・山間では甘味よりも塩がとにかく貴重だった。塩による野菜や魚の保存は、塩そのものを備蓄するという意味も大だった。飢饉の年は天候が悪い、天候が悪いとできる塩の量が少ない(海水の天日干しが不調)。