樟の森の研究室

斐伊川が久野川や三刀屋川と合流する地点、木次線がことことと走る線路のすぐそばに住まいし、ここで生きる術と学びを記していきます。

申年ノ飢饉ー天保7年飢饉ヲ思フ

「この人は、お金がなくても、食えるように、いろいろやってるよ(笑)」

 自分のことをそう言われてなるほどなとは思った。そんなつもりはないのだけれど、山を焼き雑穀を育て、野草の食べ方をいろいろと試し……、などなど。研究なのか趣味なのか事業※なのかは判然としないが、実践を積み重ねているのは確かだ。※森と畑と牛と

 

 今日は松江市立中央図書館で、享保の諸国産物帳のうち隠岐、出雲、備前備後のものを草木を中心に通覧して必要箇所を複写し、ほか開架で目についたものをめくっていたら、あっというまの3時間だった。こうした書や資料を読んでいると、飢饉、救荒のことは必ず出てくる。

 滅びゆく、用の済んだ、時代に取り残されたものばかりを集めていることは、冷笑されることもしばしばだが、いやそれはそのとおりであると自覚しているが、役に立つことがあるとしたらば、消え行く「食べるための」智慧を集めているということなのかもしらん。

 

 飢饉は多く農村で生じる(てきた)。江戸時代以降、都市での餓死は少ない。食糧は都市に集積されるものだが、現代においてはどうなのだろう。そもそも食糧がどこでストックされ流通し消費されるのかというそのめぐり方において、現代日本の農村と都市の対比は意味が薄い。

 農村から農作物をつくる知恵や技術が失われていったのは江戸時代に入ってからだと推察する。中期・享保年間あたりから、農書や救荒の書が次々と刊行されることがその傍証である。およそ300年も前から、「山に入れば生き延びられる」ことは稀になっていったのだ。あえて悪し様にいえば「ただ言われたままにつくるだけ」の農民は江戸時代に誕生し今日までその栄華をきわめているのだ。とはいえ、山野の知=野生の思考の断片は生きていて、再生も復興も可能な時代に我々はいるのだということを希望としよう。

 

 宮本常一著作集23「中国山地民俗採訪録」は昭和14年に宮本が見聞したものが中心で、金山谷や戸河内や匹見のことでへぇー、ほぉー、なんでだろう、とおもしろく読めるところ多出する。

 なかでも、山口県玖珂郡高根村向峠(むかたお)のことは、何度か通ったり眺めてきた土地であることと、2〜3の書き留めておくべき項目があったので以下に記す。ひとつは、そう、飢饉のことである。

 

《この土地で困ったことと言えば飢饉であった。飢饉はじつに多かった。食べるものがなくなると、座に敷いてある筵をさいて食べたという話もある。すると子供の小便がしみていてうまかったという話さえ残っている。

 向峠から宇佐へ下るところに墓があるが、これはウダオレとて餓死したものを埋めたところだという。さびしいところで木がよく茂っていて、若いものが夜宇佐へあそびに行って、ここまでかえると狼が頭の上をとび越して行ったという。その藪の中に何人も死んだ人がいた。坂がのぼりきれなかったのであろう。

 銭をくわえて死んでいたという話もある。一番ひどかったのは申年(天保七年)の飢饉で、村のものはおおかた死にたえかけたという。その百回忌が昭和一一年にあった。》

 

申年の飢饉という言葉は鳥取藩で語り継がれたものとしてよく出てくる。

(以下加筆予定)ホトホトのことなど。