樟の森の研究室

斐伊川が久野川や三刀屋川と合流する地点、木次線がことことと走る線路のすぐそばに住まいし、ここで生きる術と学びを記していきます。

石臼と鰹節削器

 鰹節は削りたてがよい。ただ一般家庭でもっているところは少ない。鰹節削り器を使っての削りたての鰹節を味わう機会は、割烹料亭や蕎麦屋でのそれをのぞけばそうはないということだ。

 コーヒーも挽き立てがよい。コーヒーミルは一般家庭にも鰹節削り器よりはずっと多い比率で備わっている。いちどミルを使い始めれば、手間をいとわず豆を挽いてコーヒーをいれて飲むという習慣をかえてしまうことはそうそうはない。

 そして、スパイスもひきたてがよい。スリランカカリーをつくりはじめて一年がたつが、すり鉢を使ったり、ミルサーを使ったり、小さな大理石の臼を使っているのだが、既成の粉末を購入しようとは思わない。

 しかし、先日、テレビ番組で家庭で使われている石臼をみて、あぁ、これだー!と合点したのだった。高さ30センチ、直径20センチほどであったろう。マレーシアの中流以上の家庭のようだったが、インド系と中華系の若い夫婦の台所にあったものだ。これくらいの大きさがあれば、10分かかっているモルディブフィッシュの粉砕が2分程度ですみそうだ。

 それよりなにより、刺激的かつ問題提起であるのは、石臼が現役で現代の台所に生きているというリアルな映像である。私は見てしまった。あぁ、どうしようと。

 どうしようのひとつは、どこかで買わねばということ。

 そして、もうひとつは、日本の家庭料理の問題を端的にあらわしているということ。

 石臼はもっともふるい調理器具のひとつである。石器時代からその機能はかわっていない。土器よりもふるいのだから、最古といってもよいだろう。その形態と機能を台所で保持できているという食文化の深度は強いなあと思うのだ。鰹節はモルディブフィッシュよりも洗練されているし、鰹節削り器もその洗練にあわせて洗練され、両者とも高価な品である。

 日本の料理の洗練が陥った退廃への道は、石臼のような存在を排除してしまったことにあるのではないか。削り器もそうだが、包丁使いへの依存というのか特化というのか。

 そんなことを、原田 信男『歴史のなかの米と肉』『江戸の料理史』を読みながら考えている。