樟の森の研究室

斐伊川が久野川や三刀屋川と合流する地点、木次線がことことと走る線路のすぐそばに住まいし、ここで生きる術と学びを記していきます。

生ける神としての荒神

神は死んだ

そう叫ぶものがいた

私たちはそれをいくどか耳にした

二千年前に

五百年前に

百五十年前に

つい五十年ほど前に

神は死んだ

そうささやくものがいた

私たちはそのささやきを耳にする

森神をまつる大きな木の下で

稲穂たなびく平原のただなかで

道をつくり川の流れを変えるその橋のたもとで

ふたりの男がいた

ひとりはこういった

あたりまえのことではないか

死んだのでなければ、もともとなかったのだ

神がいるのならば、神がいたというのならば、教えてほしい

もうひとりの男はこういった

なにをばかなことをいうのか

神は死んだのではない、立ち去ったのだ

もう一度神の声を聞きたい

神が今どこにいるのか教えてほしい

 職場のお茶の時間に、こんな話を聞いた。

「立原といえば、道の真ん中に大きな木があるよね」

「あぁ、あれ。道がふたつにわかれているところ。夏にはよく木陰で休んでいるよ。風も通って気持いいんだろうね。ベンチもあって。小さな憩いの場にもなっているけど、不思議だよね」

「あぁ。あの木はね。切るとたたるといって、誰もさわれないんよ。地元の人も業者の人も。だから、役場の人も枝を切るのを頼むのは、遠くから呼んできて切るらしいよ」

「それ聞いたことある。あらがみさん?」

「昔、道路の計画で切ろうとしたら、その人が亡くなって。それ以来だれも切らないしどかせないから、道の真ん中にあるままなんだって」

「子どもが、頭ぶつけたり、怪我したりが続くと、まさかあんたあの木にいたずらしたりしとらんかねって、いまでも言うよ〜」

「お祭りの日も決まってるって聞いたよ。いつも掃除してきれいにしておられるし。〇〇と〇〇を供えるんだっけ」

 まさか、である。

 職場をお昼であがり、いてもたってもいられず、場所を確かめ、カメラを手にして行こうとしたそのとき、急にみぞれが降り始めた。はやる気持をおさえる。今日はもう少し周辺をおさえてみよう。地図を年代順に丹念にみなおし、古地図のデータベースから古道との照合をはかってみたり。立原は通ったことすらない地域である。旧加茂町と旧大東町の町境でもある。

 立原(たちばら)は応仁の乱の頃には、所領として文書に表れている。立原氏に由来すると地名辞典の類にあるが、たちばらの地名が先行し、在地の武力団の長が名乗ったものだろうと、推する。

 件の荒神が宿る木は、グーグルでみるとマテバシイのようにみえるが、タブノキにも見えなくはない。常緑広葉樹であることは確かで、1970年代の航空写真をみるといまよりも少し小さな樹影がみえる。それほど古い木ではなさそうだ。

 そして、この木は立原の地とは川をはさんで東岸にある。旧養賀村との境界域である。

 川を渡す橋のたもとでもある。

 橋は昭和9年の地図にはみえる。

 江戸時代にはどうであったかというと、板橋のようなものはあったかもしれない。が、宝永7年・元禄の出雲国絵図からはうかがいしれない。

 南に里山、北に水田が開ける地。

 奈良時代から一帯の開拓がすすんでいたことは、郡家の推定地である仁和寺は北に1キロほどいったところからもうかがいしれる。

 あぁ、もう少し調べてからと思いつつ、まずは記しておくのみ。

 そう。

 木の精は苦しんでいるのかもしれない。

 荒神の木は弱っているようにみえる。そうなる要因はいくつも推することができる。いずれ枯れてしまかもしれないし、そうなるだろう。近い将来、その木を切らねばならないときがくる。その前に、そこに宿る木の精を山に返してあげられたらいいと思ったのだ。

 そう。この荒神の木は養賀村そのものでもあった小さな森の西北の端にある。養賀の鎮守の神※は、千年以上前に、神殺しが在地を蹂躙していった出雲の地にあっては珍しい神である。東国の地では多く見ることができるその神の名はククノチ

 まさか、出雲の雲南ククノチの名を見つけるとは思ってもみなかった。

 久久能智神:くくのちのかみ 

 句句廼馳神:くくのちのかみ

 屋船久久廼遅命:やふねのくくのちのみこと

 屋船神:やふねのかみ

 くくは茎。まっすぐにたつものの意であり、天と地を結ぶものとしての世界樹信仰へとつながる、神というよりは精霊と呼ぶべきものだろうが、古事記以前にその根をもつ、古い古い神であることは否定しがたい。

 記紀神学からしても興味深い存在で、古事記では、風の神の次、山や野の神の前に生まれた神であるが、書記ではその関係が変わっている。自然哲学・生態学の観点からも、少しばかり掘り下げてみたい。

 屋船、すなわち御殿の神とされるのは、木の精霊である久久能智神と、野の神である草野比売神を総称して屋船神としたことによる。(この呼称の場合の「智」は男神。「比売」の女神と対するためのご都合だけは言い切れないものがある)。

※県神社庁への届け出には、祭神は、和加男賀姫命(わかおがひめのみこと)のみあり、この神の名はない。下記由緒に残るものと、雲陽誌にあるものなどから「角川地名辞典」が採ったものだろう。いや、消えゆくものは丹念にみていかねばならぬ。

《創立年代不詳、抑々当社は和加男賀姫命、相殿神屋船句句廼智命、屋船豊受姫命、合祭神(摂神社)大己貴命之儀従来村社境内に有之侯得共格別の社祭神に付明治八年十月二十七日氏子一統協議之上村社へ合祭仕候。》