樟の森の研究室

斐伊川が久野川や三刀屋川と合流する地点、木次線がことことと走る線路のすぐそばに住まいし、ここで生きる術と学びを記していきます。

三沢の要害山山頂における大仙権現

 大正8年刊行の仁多郡誌に要害山について記載があります。
 ひと月ほど前のこと、三沢のMさん宅でお話を伺っていた折のこと。このあたりは牛馬信仰は縄久利さんで、ダイセンさんじゃないよという流れの中で、「確か要害山にダイセンさんがありますよね」と質問したところ、「?聞いたことないけどね〜」という反応でした。

 三沢ではほかにKさんに聞いただけですが、縄久利さんの祭りはあるが、ダイセンさんもあるということで、その場所も教えてもらい、確認したこともあります。が、要害山にあったという記録を見た記憶があり、確かめてみたところ、仁多郡誌にあったというわけです。あとで、原文を引用しておこうと思いますが、図面と記述があり、石像があると記されています。

 ところが、です。Mさんもおっしゃっておられたように、私も記憶にありません。何度か山頂にはあがり、そこにあるものは写真におさめたりしているのですが、記憶にも写真の記録にも、ないのです。

 山城祭のときにでも、現地を確認してみようとは思うのですが、もしないのだとしたら、誰が、なぜ、それを移したのか。そして移したものはいまどこにあるのか、ということ。

 少なくとも大正年間にはそこにあったのですから。また、ここで行われていた祭祀、すなわちダイセンさん=山あがりがどのようなものであったのかということ。

 そして、山頂にある「古井」の由来についても、単に放牧してあった牛が落ちたから埋めたのではない可能性がでてくるのではないか。山あがりの祭祀のときに、牛を連れてあがるということは、平成の今でも昔の思い出としてお年寄りから聞くことができます。その牛が落ちたのか、あるいはもともと井戸などなく、牛が落ちて死んだための塚としてあったものではないのか。
 このような山頂に井戸がある意味として、山城跡であったためだと合点しがちであるが、山城の山頂部分には井戸があるものなのか、どうか。

 ほか確かめたいことは多々あるが、まずはとりかかりの緒として、備忘に記すものです。

 IMG_20190326_0001