樟の森の研究室

斐伊川が久野川や三刀屋川と合流する地点、木次線がことことと走る線路のすぐそばに住まいし、ここで生きる術と学びを記していきます。

心について三題

まず、昨年7月くらいの投稿から。

心がわれわれに属するというよりも、われわれが心に属しているのである

昨晩の「本とスパイス」では、絵本『かさどろぼう』をとりあげましたが、トーク後のカフェ・タイムに「傘・能・心」ってなんですか?と、、、これ、端折ったけれど、まとめでもあるので、少しばかり蛇尾を重ねてみます。

拙者が心はなまらねど左言ふ貴殿の御胸中まことに以て心許なしーー「なまる」の江戸後期の用例で、決心がにぶる、貫徹しようとする意志が弱まるの意。もともとの「なまる」は、わざの冴えがにぶる、技量が落ちるの意をもって用いる言葉ですが、刀剣の切れ味を一義としながらその刀剣の用が頻ならざる時代において、人口に膾炙していったようで、それは「傘」が日用の具として普及していく過程と軌を一にしているのではと。
さて、心と傘の関係。これをとくのに「能」の世界をかいま見ていくのですが、その舞台となるのが「軒端」という場所、「雨が滴り落ちるその場所」なわけです。
そして、作業仮説なのですが、江戸時代を通して「決心」のあり方が大きく変わってしまったということを検じていくのに、ふたつの項をみます。
ひとつは「どろぼう」観。一銭でも盗めば死罪を常とする民の論理と、動機や金額による量刑化(合理化)をはかろうとするお上の論理のせめぎあい。
もうひとつは、記号論。パースを参照してみようと……。すなわち、
「決心とは閉じた個の作用ではなく、集合的集団的かつ公共的な現前である」
パースは心についてこう述べています。「われわれはその表面に浮いているものであり、心がわれわれに属するというよりも、われわれが心に属しているのである」
 Thus, all knowledge comes to us by observation, part of it forced upon us from without from Nature's mind and part coming from the depths of that inward aspect of mind, which we egotistically call ours; though in truth it is we who float upon its surface and belong to it more than it belongs to us.

……と、いうわけで、次回の「本とスパイス」は、日本人の「こころ」が大きな変わり目に直面していた元禄時代に記されたとある日記をとりあげます。

 ここまでの一文が本とスパイスの前口上でありました。パースの記号論については、補助線とみてもらえればと。

 アリストテレスとダマシオについてはのちほど加筆の予定です。

アリストテレス

ダマシオ